『石垣りんの手帳 1957から1998年の日記』(katsura books;2025年2月)という不思議な書籍が昨年発刊されています。
石垣りんは著名な詩人ですが、私の古巣の興銀(日本興業銀行)の女性行員でもありました。
昭和9年(1934年)に14歳で興銀で働きはじめ、昭和50年(1975年)に55歳で定年退職されています。銀行員でありながらも若い頃から詩人としての活動もしていた稀有の存在でありました。
詩人としての評価は高く、今でも、詩集は幅広く読まれ高い関心をもたれています。
「エッセイ」も最近いくつも再刊されています(例えば、中公文庫から『朝のあかり』(2023年)、『詩の中の風景』(2024年)、ちくま文庫から『焔に手をかざして』(2026年)、『ユーモアの鎖国』(2025年))。
また石垣りんの伝記を、ノンフィクションライターの梯久美子さんが連載評論として文芸誌「新潮」で連載し、2026年6月号で第22回となっています。
この『石垣りんの手帳』は、興銀が毎年制作していた銀行手帳に、石垣りんが日々の活動を簡潔に几帳面な自筆で記述したものを年次順に30冊分、筆跡も含めてそのままの形で書籍にしたものです。
この興銀手帳は見開きで1週間、日付だけが入っているものです。
そこに石垣りんが日々の活動記録や雑感を書き記したものです。
この日記の日々の活動記述からは毎日の生活の風景が身近に感じられ、また情景のみずみずしい感じが浮かび上がってくるところもあります。
幼少期からの苦労をいとわず生涯しっかりとした人生だったことがうかがわれ、昔の日本人の日々生活することへのある種の矜持が感じられ、素晴らしいと思いました。
例えば昭和59年(1984年)1月1日(日)には、「朝6時起きて中延へいく 晴天、アカネ色に明け初める空に糸のように細い月」(読める範囲で引用、以下も同様)などの記述が見られ、抒情性も大変豊かなところがあります。
今回は、そうした石垣りんの詩人や日々の生活などを正面のテーマとして取り上げるということではなく、この日記を読み進めていたところ、当時定年が55歳で、その退職に係る記述があったことから、昔は確かに55歳が定年だったことを思い出し、その昔の定年と今の定年について思いを巡らせましたので、その点についてエッセイにしました。
定年に関するところですが、日記に1975年2月19日(水)「最後の出勤、7近くまで しごとに追われる」とあり、2月20日(木)「9、50本店人事部へゆく、10時定年退職の辞令、正宗頭取より。花束、・・・さんより。6退行、・・・」、2月21日(金)「7目をさます 大雪、池上線事故、谷川さんより40年浄化と祝いのことば、・・・4、50頃のこだまでアタミへ。送別兼懇親会桃山荘 3近くネル、雪の夜景めずらしく・・」とあります。
この谷川さんは詩人の谷川俊太郎のようです。長いお付き合いだったようです。
私が社会人になる前の時代の話ですが、確かに当時は55歳が定年退職だった時代でした。
石垣りんにとっての定年はどういう位置付け、あるいは区切りだったのか、おそらく若い頃からの生活のための働きから解放され、本来の自分らしい生活者として創作活動を中心に組み立てていける転換点であったと思われます。
当時(1975年)の日本人の平均寿命は、男性71.7歳、女性76.9歳でした。
高度成長の下で栄養バランスがよくなり、また医療水準が向上したことから急速に平均寿命が向上していた時代です。
それでも世界ではトップ10入りはしていなくて、その後女性の平均寿命は1984年に80.5歳で世界一になっています。その時点で男性は74.7歳でトップ10前後でした。
現在は男性81.0歳(世界6位)、女性87.1歳(40年世界一を継続)と、1975年から50年を経て男性も女性も10年ほど平均寿命が延びています。
こうしてみると、石垣りんの55歳の定年は当時の平均寿命からは早いわけではなく、今の65歳の感覚と共通しているイメージです。
定年退職について制度面からその歴史を紐解くと、1970年代までは55歳定年が企業のスタンダードだった時代です。
この制度化は、1960年代以降の高度成長期に企業側は一定の年齢期限で労働契約が終了する制度として、期間の定めのない労働契約に事実上期限を設けるという意味合いを有していました。
同時に労働者側からすると、定年までは雇用の継続を保障しているということです。
こうした定年制はいわゆる日本型雇用制度の骨格を構築していたわけです。
高度成長期には、企業サイドも従業員サイドもこうした定年制が一致団結的に活動していく大きな役割を果たしていたと言えます。
世界においては定年制が組み込まれているところは少数派で、米国などは、現在は、年齢と雇用の関係をリンクさせることは、差別的な扱いだということで禁止されています。
時系列でみていくと、1973年、政府の第2次雇用対策基本計画で、「計画期間中に60歳を目標に定年を延長する」ことが明示され、1980年ころには大企業や金融機関で60歳定年に移行しているところが多数となっていました。
1986年に高齢者雇用安定法が成立し、定年について60歳を下回らないようにする努力義務が設けられ、その後60歳未満の定年が禁止(1994年改正)されます。その後は定年制から継続雇用の議論となり、2012年には希望者全員の65歳までの継続雇用が義務づけられ、2021年には企業に対し70歳までの就業機会確保が努力義務となりました。
こうした定年制の制度変化は、人口動態状況、企業の人材確保状況、そして年金の支給年齢の変遷とともに進んできました。
特に年金支給については、1974年に60歳開始となったことが60歳定年制と密接な関係性を有していました。
その後年金支給が65歳に引き上げられたことから、現在では継続雇用との関係性も出ています。
労働人口が減少する社会においてそれを補うべく、女性とシニアの労働人口の増加が労働人口の減少を食い止める方向となっています。同時に社会保障制度の持続性の観点から給付の増大を抑え込むためにも、65歳定年制からさらに70歳まで働く、あるいは生涯働くのは決して変な話ではないという時代に入っています。
私は2003年に出版された布施克彦氏の『54歳引退論―混沌の長寿時代を生き抜くために』(ちくま新書)を読んだことを思い出し、書庫から引っ張りだしました。
商社マンだった布施氏が「かつて余生だった55歳以降を、高度成長期の単線・単眼的捉え方でなく、寿命80歳時代をベースとした人生再構築期とし、さまざまな角度から「54歳引退」を提唱する。」(表紙カバーから)という意図で人生の転換を訴えた新書です。
「サラリーマンとしての自分の行く末が見え始めるであろう40代前半に、躊躇わず引退準備を始める。引退後の仕事への準備にどのくらい時間がかかるかは、めざす目標によって千差万別だろう。・・・54歳は地に足をつけながらじっくりと自らを変える、人生転換の適齢期だと思う。」(211ー212頁)とあり、当時の布施氏は56歳で、私が布施氏から一回り(12年)年下であったことから、私自身はこの新書を羅針盤のようなものに当時感じたことを思い出しました。
こうした文脈で定年を考えると、石垣りんこそ定年を契機としたその後の転換の見事なロールモデルであると思います。
そもそも定年からの転換は、普通のサラリーマンには容易にはいかないところが多々あり、定年後の過ごし方に係るガイダンス本が山のようにあるのは周知の通りです。
まして生成AI時代に入り、専門性自体が劣化しかねない時代では定年制度は実質形骸化しつつあり、定年の手前でなるべく早く人生を転換していくことが必要になっているのではないでしょうか。
制度に依存せず、企業に依存せず、人生設計を組み替えていくことの重要性が一気に増しています。こうした時代にどう個々人が生き抜いていけるかは、ロールモデルも事実上なく、個々人自身で試行錯誤の中で進めていくしかない時代に入っています。
難題ですが、生成AI時代の個人力は何か、シニア層が自分に向き合って問いかけを粘り強く行うことが求められます。
皆さんからも本エッセイ含めてご意見をお寄せください。
2026年5月10日記(次は夏休みまで 頑張りましょう)イノベーション・インテリジェンス研究所 代表 幸田博人)
