星新一は、SF草創期から活躍されたショートショートの小説家で、1,000を超えるショートショートを発表し、長く活躍され1997年に71歳で亡くなられています。
代表作は「ボッコちゃん」「生活維持省」「きまぐれロボット」「午後の恐竜」などです。私も高校、大学時代に、新潮文庫で8割くらいのショートショート作品を読んだ記憶があります。すでに内容は忘れていますが懐かしいところです。
「星新一賞」は日本経済新聞社で2013年にスタートし、昨年募集したものが第13回となります。
第13回の応募要項では、応募部門は一般部門、ジュニア部門の2部門で、日本語原稿のみ人間以外(人工知能等)の応募作品も受付ける(ただしその場合は、連絡可能な保護者、もしくは代理人を立てること)、一般部門は10,000字以内です。
理系的な発想力を期待し「理系文学」を土俵に、アイデアとその先にある物語を競う賞との位置づけで文学賞としてもユニークなものだと思います。
なお、過去の受賞作品は、新潮文庫から『星に届ける物語 日経「星新一賞」受賞作品集』(2025年2月)が発刊されていますので、是非ご覧ください。
この13回目の審査結果発表は今年(2026年)の2月にありました。
応募総数が2,107編で、一部AIによる創作と認められた作品は491編あり、2割を超えたそうです。このAI関連は前年の93編から5倍もの応募となり急増しました。
もともと2013年のスタート時から、日経新聞と公立はこだて未来大学との間で連携したこともあり、当初からAIの利用は可ということで話題になったこともありました。
先週4月16日(木)の日経新聞の文化欄(32面)に「氾濫するAI小説(上)」という特集記事があり、第13回「星新一賞」の衝撃が語られています。
一般部門受賞作4作品のうち、3作品がAIを利用して執筆した「AI小説」だったということです。3作品のうち積極的にAIを利用したのが2作品、補助的に利用したのが1作品とのことです。
その記事の中には受賞者のAI利用に係るコメントもありますが、それをみるとAIを補助的に利用しているというよりは、AIとの共同作業をかなり行っています。
AIからの山のようにアウトプットをさせて、それらを選別しブラッシュアップさせていくという手法だったことがわかります。
従来の小説執筆の作者であれば、呻吟しつつ何度も推敲を重ねていく、あるいは原稿を書きなぐってゴミ箱に何度も投げつけるようなプロセスは全く見当たりません。小説執筆のスピードはAIを活用して執筆することで遥かに効率的になることも事実でしょう。また素人が小説を執筆して文学賞に応募するハードルも格段に低くなっていることがうかがわれます。
6人の審査員のうちのお一人である最相葉月氏(ノンフィクションライター、『星新一 1001話をつくった人』(2007年、新潮社)で星新一の伝記を執筆)は、「たとえAI小説がどれほど面白かったとしても、私は人間の内から生まれた言葉こそが尊いと思う。人間の尊厳を守りたい。AIの執筆した文書は、もう読みたくない」とのことで、AIが執筆した作品も受け入れる文学賞の審査員を今後は引き受けないと決めた(同記事参照)とのことです。
私も今回の4作品を読んでみました。第13回 日経「星新一賞」公式ウェブサイトで全文が読めます(日経電子版)。ショートショート1万字なので1作品15分くらいで読めます。補助的にAIを利用した(病名のアイデアなど)作品がグランプリを受賞しています。この作品は、私も興味深く読み、大変面白くグランプリに相応しいものだと思いました。
最相氏がAIの小説は読みたくないというのはもっともだと思いつつも、一方でそうしたAI小説が氾濫し出回るなかで、「人間の小説」と「AIの小説」にもはや垣根や境界はなく、たとえ「AIの小説」であってもそこから「読書体験」は従来と同じようにあるいは同じ以上に得られるかもしれません。
少なくとも「読書体験もどき」として得られることも確かで、そこに一定の価値はあるでしょう。同時に、そこに何か、人の「読書体験」として異なることが生じるかは今後の様々な実体験から評価が見えてくると思いますが、現時点で考える限りにおいてはその「人間の小説」と「AIの小説」の落差はどういうものがあり得るかについて、その可視化は悩ましいところでしょう。
多分疑似的なものなのか、人間の頭脳から出てきたものとの違いに大きな意味はないかもしれません。
以前、私はメルマガ37号(「AI●●さんの限界と読書の有用性」)で、「AIは書物データの解析を統計的な手法、アルゴリズムで行っているので、読書をしているわけではないということです。でも、実際の読書をする代わりに、AI解析を通じたものをベースにして、実は読書をしたように錯覚してしまうことは、起きやすいと思われます。」と論じ、「「読書」体験は、AIが持たない価値を導いてくれる可能性が相応にあるわけで、意識的に「読書」体験を持つことこそが、個々人とAIの差異性を創ることにつながる可能性もある」と記述しました。
この「読書体験」に人の付加価値をつけていく意義は十分あるということはその通りですが、同時に読書の対象である小説や論文などは、AIのものなのか、人間のものなのかに何らの違いを設けることは意味をなしていない時代に入ってきているのかもしれません。
日経新聞の「星新一賞」の応募規定の「生成AIを利用しての応募について」の中に、「AIが生成した文書はそのまま利用せず、人間が加筆・修正ください。加筆・修正した前後の文書は、必ず記録してください、そのほか、創作的寄与を加えるように努めてください。例えば、具体的な指示をする、生成物を確認して入力を修正する試行を繰り返す、複数の生成物から選択する、生成された文章に人間が加筆・修正するといった行為を十分に実施することが望ましいです。」とあります。
もはやこの生成AI時代、人間はAIに依存していくしかないときに、人間の果たす価値創造は何らかの究極的な進化がないと難しい時代に入ったとも思われます。
この「創作的寄与」が、当面は人間の付加価値ということになると思われますが、現状はプロンプトなどを通じたやりとりで人間サイドの創意工夫もあり、一定の貢献は可能との見方も成り立ち得るでしょう。
しかしながら、生成AIの今後の進化の中でそうした人間の付加価値はどんどん限界的になるとも思います。
こうしたことを考えていくと、小説だけではなく論文なども含めて、生成AIが創作の基盤としての標準的なスタンダードとなっていき、そこに人間の価値が追加できるかどうかで小説や論文の価値が決まる時代に入ってきています。
果たして人間にしか執筆できない小説の世界が成り立つのか、やや懐疑的にならざるを得ないところでもあります。
今回の「星新一賞」の受賞者でも行われていたようですが、生成AIから出てくる大量の文書についてそれを選んでいくことは、果たして「創作的寄与」にあたるのでしょうか。
「創作的寄与」とはどういうことを意味しているのか、よく考えていく必要がありそうです。
AIがスピードとアウトプットの量を競うのであれば、人間の小説は「熟柿の如し」に意味を持つのではないでしょうか。
大変な時代になってきたとの実感、まざまざと感じている次第です。
皆さんから本エッセイ含めて、ご意見をお寄せください。
2026年4月19日記(もうすぐ5月の連休です。少しゆっくり休みましょう)イノベーション・インテリジェンス研究所 代表 幸田博人)
